今回は、作詞家・喜多條忠さんの
お嫁さん(妻)とは離婚・再婚してるのか?
お嫁さん(妻)とのエピソードの数々
息子さんや娘さんなど子供さんに関する情報
などなど…喜多條忠さんの家族について書きました。
喜多條忠の家族は?嫁(妻)とは離婚・再婚してる?
喜多條忠さんのお嫁さん(妻)に関する情報ですが
「culb willbe」のインタビューにて
「神田川」を作詞した際、エピソードが書かれています。
この時、2人目の子供が産まれそうだったそうです。
さらに、その時のお嫁さん(妻)とのやり取りも書かれています。
『神田川』は俺の初めての印税契約だった。ところが最初は騙されて、レコード会社の上の人にこう言われたの。
「『神田川』売れて良かったね。だけどあれ、買取りだったんだってね。残念だったねぇ」
「えっ! 買取りだったんですか?」(喜多條)
「それで買取り金額が3万円って聞いたから、それは可哀想だから5万円にしてやれって言っといたよ」それでガッカリして家に帰って当時の女房に伝えると、「いいじゃない。5万円あったら、けっこう助かるわよ」
て言うの。それで5万円で買う物のリストをノートに書き出した。まず、二人目の子供が生まれそうだったから二段ベッド。それから女房はヤカンを焦がしちゃったので、赤いホーローびきのヤカンが欲しいと。それで俺は知り合いから競馬に誘われてたから、1万円は軍資金として欲しいなと。
それで夫婦で5万円引き出しに銀行に行ったら、780万円振り込まれてた。間違いだと思って、窓口の人に「5万円のはずですけど」って言ったら「その金額で間違いありません」て言われて。
最初の印税だけで780万。当時の俺の年収が200万くらいだったから、びっくりしすぎて女房と二人で座り込んだね。
その後、喜多條忠さんは売れっ子になり、年間100曲以上を書き、夜も寝れなく仕事部屋から帰れなくなる程、かなり多忙な生活を送られました。
ただ、ある時期から歌が書けなくなり、お嫁さんともギスギスして家庭的にも大変になって行ってたそうです。
そして、子供を残してお嫁さん(妻)がいなくなったそうで、喜多條忠さん1人で子供さん2人の育児を始めます。
朝5時に起きてお米を炊いて、弁当を作り、幼稚園に送り届けてたら、時間がなく仕事の依頼を断ってたそうで、そうしたら半年後には作詞の仕事の注文が全く来なくなったそうです。
その様な生活を3年ほど送り、再婚され、35歳くらいで喜多條忠さんは家庭も東京も捨て、放浪の旅に出たそうです。
再婚したお嫁さん(妻)は、そのまま家にいて、子供さん2人を育てられてたそうです。
ただ、喜多條忠さんの印税があったので、お嫁さん(妻)と子供さん達は生活には困らなかったそうです。
ちなみに、再婚したお嫁さん(妻)は、輝美さんと言う名前ですね。
喜多條忠の家族は?息子はデザイナー?娘は?
喜多條忠さんの子供さんについてですが
1977年の「メランコリー」を書いた際のエピソードとして
男ヤモメだった喜多條忠さんが、子供だった娘さんと公園でオウムを見た時のエピソードから「人の言葉が喋れる鳥」のプロッドが生まれ、歌詞が完成し、吉田拓郎さんに提出されたそうです。
と言った感じで、娘さんがいてますね。
ちなみに、「高校偏差値ナビ」によりますと
また、息子はファッションデザイナーとしても知られる
と書かれていますが…真相は不明です。
上記のお嫁さんとのエピソードを見てる感じだと、1973年の作品・神田川の前後で2人目の子供が生まれてる可能性があるので…2人目の子供さんの年齢は48歳前後と言う事になりますね。
ちなみに、1974年「妹」は喜多條忠さんの実体験を元に書かれてて、喜多條忠さんには6歳年下の妹さんがいてます。
ただ、「妹」の歌詞で「お前は器量が悪いんだから」と書いたら、後からえらく妹さんに怒られたそうです。
以上が、喜多條忠さんの家族に関する記事ですね。