ニュース

市田ひろみに夫(結婚相手)はおらず独身?若い頃の画像や経歴は?

今回は、市田ひろみさんの

 

  • 独身の噂が出てる理由
  • 両親や弟など家族に関する情報
  • 若い頃の画像や経歴・エピソード

 

などなど…市田ひろみさんについて書きました。

市田ひろみに夫(結婚相手)はおらず独身?

市田ひろみさんは、夫(結婚相手)はおらず独身だったのでは?と言われています。

2014年4月1日の「中楽坊」のインタビュー記事にて、「家庭がないからこんな勝手な時間の使い方ができるんですが」とコメントされてる事から夫はおらず独身だったのでは?と噂されています。

年100カ所以上、講演があります。家庭がないからこんな勝手な時間の使い方ができるんですが。

引用:https://www.highness-co.jp/churakubou/detail/19

そして、「テレビ番組表Gガイド」の「市田ひろみに関する情報」にて、家族:母・弟家族と記載されています。

と言う部分から、夫がおらず独身だった可能性がありますね。

さらに、弟さんは結婚されてるっぽいですね。

家族: 母 弟家族

引用:https://bangumi.org/talents/63146

市田ひろみさんは、家族について

社会の中で一番小さな単位は家族。無償の愛で結ばれてるのが家族。

とコメントされています。

スポンサーリンク




市田ひろみの若い頃の画像や経歴は?

引用:https://www.pinterest.jp/pin/492933121696418161/

市田ひろみさんの若い頃の経歴ですが

1932年7月10日、大阪府大阪市大正区生まれ

太平洋戦争中だった小学校時代は、父親の仕事の都合で中学・上海で6年間過ごしたそうです。

1945年に日本に帰って来た。上海から下関まで13日間かけて帰って来たそうです。

小学校時代は、日記を毎日書かされ、文字・文章を書くのが得意になります。

さらに、かけっこやゴム飛びがクラスで一番得意で、よく「おてんば」と言われてたそうです。

帰国後、京都に移り住みます。上海に残された父親の代わりに母親は家庭を支えなければならなかったそうで、美容室を始めます。

高校時代は陸上部で、円盤投げ・短距離・砲丸投げで何度かインターハイに出場し、ボーリングで日本チャンピオンになっています。

市田ひろみさんは、堀川高校→京都府立大学女子短期大学部 国文科(1953年卒) 卒業されています。

短期大学卒業後、ヤンマーディーゼルで働き、技術部長の秘書に抜擢されます。

ヤンマーディーゼルの横井之昭さんの秘書をされてて、会社を辞めた後「君のような秘書は、あのあと来なかったよ」と言われたそうです。

お茶の先生が大映京都撮影所の所長のさかいさんの奥さんにお茶を教えてて、「お弟子さんの中で誰か女優さんになれそうな人を推薦してください」と言われ、お茶の先生が撮影所見学と市田ひろみさんをだまして、女優の面接に連れて行ったそうです。

その後、市田ひろみさんの家にお茶の先生が来て、「ひろみさん、あんさん女優さんでっせ」と言われて、両親に女優を合格になった事を伝えます。

ただ、市田ひろみさんが女優になる事は親戚中から反対されたそうですが、大映ニューフェイス・第十期生として専属契約を結び、女優になる事を決めたそうです。

女優時代は、「和製ソフィア・ローレン」と言われていました。

1958年「手錠」で銀行強盗の愛人役でデビューする

女優になってから、悪女役など難しい役柄が多く、普通の家に生まれた市田ひろみさんは生まれながらに幸せになれなかった女性の退廃感や孤独感の芝居が出来なかったそうで、その事によりデビューして3年で女優を引退されました。

そして、母親の仕事を手伝って着付けを行い、1948年に母親が開業した家業の2代目(1961年、京都ホテルで美容室を開業)として事業を広げます。

そして、顔見知りの呉服問屋から一緒に着付け教室をする事を誘われ、当時そのような教室が世の中になく「京都は着物の町。着物を着られる人を増やさないといけない。」と使命感を感じ、その場で仕事を受けます。

ただ、その時、市田ひろみさんは一人で着付けする事が出来なったので、母親から1週間みっちり特訓を受けて、第1回の教室を成功されたそうです。

大阪心斎橋の大丸百貨店で着付け教室の仕事をされた時に、父親に「お父さん、大丸1週間行くしな。いつでも見に来てや。」と言われると、初日の第1回目に父親が見に来てたそうです。

ただ、その時に父親に「お前の喋り方なんや?バナナの叩き売りやないか?」と言われたそうです。

その時は聞く耳を持たなかったそうですが、その後もその言葉が耳から離れず、それからお客さんの顔を見て、一人一人に語りかけれる様になったそうです。

その後、市田ひろみさんは着物教室以外に、デザインや新しい形を作るなど様々な仕事をされる様になります。

そして、1968年に京都・西陣にある織屋さんに「ヨーロッパに行って来て、民族衣装を集めて来てほしい。その民族模様を着物や帯にデザインして欲しい。」と言われます。

そして、ヨーロッパ11か国に行った時に、現地の人に凝った作りをしてる着物を見て「日本人は凄い」と言われて和文化の素晴らしさを再認識されたそうです。

その後、市田ひろみさんは「着物コンサルタント」として、数々のテレビに出演されます。

ただ、本人の意図せぬまま付いた「着物コンサルタント」と言う肩書は、京都でよく思わない人もいたそうで、色々叩かれたそうです。

その事で、市田ひとみさんが泣いてると、親に「泣いたら負けやで、泣くぐらい悔しかったら、勉強して見返してみいや」と言われたそうです。

以上が、市田ひろみさんに関する記事ですね。