今回は、横井庄一さんの
- お嫁さん(妻)・美保子さんとの出会い・馴れ初め
- お嫁さんとのエピソード
- お嫁さん・美保子さんの現在について
- 子供はいてたのか?
などなど…について書きました。
横井庄一の妻(嫁)は美保子?
横井庄一さんのお嫁さん(妻)の美保子さんで東京都出身になります。
下のURLからお嫁さん(妻)の美保子さんの画像をご覧になる事が出来ます。
https://news.yahoo.co.jp/articles/c1ea25bc034ba00e83959df40dfb76893c93291a?page=1
横井庄一と妻(嫁)との出会い(馴れ初め)は?
横井庄一さんと美保子さんですが、1972年8月13日に名古屋でお嫁さん(妻)の美保子さんと横井庄一さんはお見合いをされました。
当時、美保子さんはお兄さんの家で家事手伝いをしながら生活をされてて、横井庄一さんについてはあまり知らなかったそうです。
お見合いは親しい知人から「行くだけでいいから」と懇願され、ピンチヒッターとして臨んでて、お見合いする事はは家族にも話してなかったそうです。
横井庄一さんの第一印象はスマートな紳士だったそうです。
ただ、横井庄一さんの第一声は「結婚する意思もないのに、珍しいからわしを見に来ただけだろう」と挨拶もなしに言ったそうです。
美保子さんは少し戸惑ったそうですが、その場はやりすごし、2人きりになった時に、美保子さんは
私はとても怒っています。そんな物好きではありません。あなたはグアム島で28年もがんばって生き抜いたほどの人なのですから、焦らずゆっくりと、自分にふさわしいお嫁さんを探さなくては幸せになれないと思います
とコメントされ、横井庄一さんは「あんたのように、怒ってくれる人が好きだ」と真剣な顔で言われ、お互いに卯年生まれで親しみもわき、徐々に打ち解けて行ったそうです。
そして、横井庄一さんは美保子さんに、箸袋に 「君思ふ 心にまさる 名城かな」ととても上手な字で書いてくれたそうです。
その後、トントン拍子に話が進み、その日のうちに結婚が決まったそうです。
そして、帰り際に横井庄一さんは「心変わりせぬように」と美保子さんに言われたそうです。
その後、美保子さんは家に帰り、箸袋のメッセージを家族に見せ「お見合いをしてこういう関係になったので、結婚します」と伝えたそうです。
そして、1972年11月に結婚をされています。
横井庄一さんは57歳で美保子さんは44歳でした。
横井庄一と妻(嫁)とのエピソードは?
結婚後、横井庄一さんの取材や講演やテレビ・雑誌の出演などたくさんの依頼があり、横井庄一さんの体が心配なので、お嫁さん(妻)の美保子さんがマネージャーになり、かばん持ちからスケージュール管理まで行ってたそうです。
初めの頃、講演会で上手く話せない横井庄一さんを見て、美保子さんは「なんで彼にこんな苦労をさせてるのだろう」と涙を流した事もあるそうです。
横井庄一さんは美保子さんと2人でいるときはあまり話さなかったそうです。
妻(嫁)・美保子の現在は?
お嫁さん(妻)の美保子さんは、2006年6月に名古屋市の自宅の一室に「横井庄一さんの生き方、そして戦争と言う経験を後世に伝えたい」と言う思いで、「横井庄一記念館」を開館されています。
お嫁さん(妻)の美保子さんは、2022年5月27日に脳出血により94歳で亡くなっています。
喪主は、甥の幡新大実さんがつとめています。
横井庄一に子供はいてない?
横井庄一さんには、子供はいてなかったそうです。
ちなみに、妻(嫁)の美保子さんの甥は、幡新大実(はたしんおおみ)さんで、大阪女学院の国際・英語学部教授で、横井庄一さんの著書の英訳本を出すなど横井さんの研究者になります。
妻(嫁)の美保子さんの兄が、幡新大実さんの父親になります。
美保子さんと横井庄一さんの結婚式時は、幡新大実さんは保育園の年長さんで両親に連れられ出席されたそうです。
さらに、幡新大実さんが
一度、小学校3年生の頃に従姉と弟と一緒に名古屋まで遊びに行きました。著書の『明日への道』を読んでみると、横井さんは、どうやら「いじめられっ子」だったようですから、弟のことが大変気になったようでした。
何も言わなくても見ただけで分かる人でした。横井さんも本当はこどもが欲しかったのだろうと思います。両親のそろった家庭で育つ機会のなかった人でしたから、なおさらです。
引用:https://hicbc.com/tv/hazukashinagara/column09/
と言うエピソードを話されていました。