今回は、元祖どつき漫才でお馴染み・正司敏江さんの
若い頃や生い立ちについて
娘さん・息子さんの名前や年齢などや
元夫・及川玲児さんとの離婚理由
などなど…正司敏江さんについて書きました。
正司敏江の若い頃や生い立ちまとめ
日本沈没 第4話「海が崩れる時」。
人気漫才師 正司敏江 玲児が出演、得意の ドツキ漫才を見せる。ドツキ漫才は今でもあるが、敏江 玲児の場合は、男性が女性を殴り、蹴り、投げ飛ばすという、今ではTVで放送できないものだ。投げ飛ばされた敏江の着物の裾が捲れ、パンツが丸見えになる。さらに pic.twitter.com/VOr62rQbYD— 三一十四四二三 (@31104423) January 21, 2018
正司敏江さんの若い頃や生い立ちですが
父親は天理教の宣教師で、布教のために小学校卒業後、一家で香川県坂出市に転居
坂出市立川津中学卒業後、大阪の叔父を頼り来阪、ミシン工場で見習い兼女中として働く
一年半後、天理教の信者の関係で父親がかしまし娘の両親と知り合いだったので、1957年にかしまし娘の住み込み弟子になる
ある日、かしまし娘の父が2人の弟子・芳江、春江を連れて来て、正司敏江さんが入り、「ちゃっかり娘」を結成
1962年初舞台でギターを担当
その後、他の2人が津軽三味線の世界に飛び込んだため解散
1968年5月1日、角座で「正司敏江・玲児」として正式デビュー
最初は普通のしゃべくり漫才だったけど、あるときの舞台で正司敏江さんがせりふを忘れ、及川玲児さんが怒り、本気で突き飛ばし、それが凄くウケて、これがきっかけで「どつき漫才」が誕生する
1969年、上方漫才大賞の新人賞をデビューからわずか10カ月で受賞
これにより、一気に人気者になる
1971年、TBS系ドラマ『時間ですよ』(第2シリーズ)にレギュラー出演・1972年4月、「新・番頭はんと丁稚どん」メインレギュラー
などを務める
以上が、正司敏江さんの若い頃と生い立ちになりますね。
正司敏江の娘・息子の年齢などは?
引用:https://lineblog.me/mogranmoguraagain/archives/1063388.html
正司敏江さんの芸人の下積み時代から及川玲児さんと交際してたけど
裏方(マネージャーの及川玲児さん)が商品(芸人の正司敏江さん)に手を付け、芸界の掟を破ったことで、師匠の正司歌江さんから破門されます。
その後、1964年、浪曲師の斎東満夫妻の仲人で結婚。
1967年に及川玲児さんと夫婦漫才コンビを結成するも、正司敏江さんは結婚を機に芸人をやめてたので、11月に松竹芸能の偉い人の前でのオーディションに緊張しすぎて失敗し
「これではいけない」と生まれたばかりの長女さんを香川県坂出市の両親に預け、かしまし娘の女中をして給料を貰いながら、芸を磨いたそうです。
初めは夫婦である事を隠し、正司敏江さんはずっと及川玲児さんを「おにいさん」と呼んでいたので兄妹漫才と偽り「正司利児・敏江」の名で活動していました。
上記の情報から、娘さんは、1967年辺りに生まれてるっぽいので、年齢は54歳前後辺りの可能性がありそうです。
及川玲児さんは「飲む打つ買う」全部やる人で、ボートレースが好きで金遣いが荒く、弟子の女性と浮気し、ボートレースで勝ってお金ができた時に正司敏江さんには黙っているけど、浮気相手に色々買ってあげてたそうで…正司敏江さんは非常に腹が立ったそうです。
その後、正司敏江さんは1973年の秋に芦屋のマンションを出て、香川県の両親に預けてる一人娘と一緒に住むことにしたそうです。
これは、結婚してから9年半ほどの出来事だそうです。
と言った感じで、正司敏江さんの子供さんに娘さんのみで、名前は、及川円(まどか)さんになります。
その後、1976年1月に正式に離婚しました。
慰謝料は貰わなかったそうです。
その後、正司敏江さんは再婚されてないそうです。
ただ、離婚後も2人は漫才コンビは続けられています。
元祖どつき漫才の2人ですが、正司敏江さんは家庭では及川玲児さんの言うことを何でもきいてたそうです。
及川玲児さんは、再婚し、息子の孔児(こうじ)さんが生まれています。
及川玲児さんは、2010年12月10日に、成人T細胞白血病リンパ腫で71歳で亡くなられています。
以上が、正司敏江さんの娘や息子に関する記事ですね。