今回は、沖縄4区に立候補されてる金城徹さんの
wiki風プロフィールや
出身小学校~大学までの学歴
保育園園長や那覇議会議員時代などの経歴
などなど…金城徹さんについて書きました。
金城徹のwiki風プロフィールは?
まずは、金城徹さんのwiki風プロフィールですが
名前:金城徹(かねしろとおる)
生年月日:1953年9月19日
出身地:沖縄県那覇市垣花町
家族:妻、子4人、孫8人
趣味:読書、映画鑑賞、釣り
実家は、軍港の向かい側の山下町で銭湯をされていました。
父親は亡くなってて、お兄さんと母親・祖母で営んでいました。
実家の銭湯にて
当時周辺は、米兵がたむろし、米兵相手の飲み屋もかなりありました。ある日、十数人の米兵が酒に酔って、銭湯に押しかけてきました。拳銃を抜き、これ見よがしに威嚇し、女湯に入り込む。我が物顔でした。母から「警官を呼びに、交番に行け」と言われましたが、足がすくんで動けなかった。今もこの記憶が消えることはありません。こんなことがあっても事件にもならない。この様な不条理が当時の沖縄ではよくありました。
と言った事もあったそうです・・・
以上が、金城徹さんのwiki風プロフィールですね。
金城徹の学歴(出身高校・大学など)は?
金城徹さんの出身高校・大学などの学歴ですが
1966年、那覇市立久茂地小学校卒業
1969年、那覇市立那覇中学校卒業
1973年 沖縄県立豊見城高校卒業
1976年、名古屋電気通信工学院 電波通信学科卒業(現、名古屋電気通信工学院を名古屋工学院専門学校)
沖縄県立豊見城高校は
1966年4月、琉球政府立豊見城高等学校として開校され、普通科・家政科を設置
1972年5月15日、沖縄県立豊見城高等学校になる
1996年3月、家政科を廃止
野球部が強豪で、1975年春・1976年春夏・1977年春夏・1978年春夏に甲子園出場し、1977年夏・1978年夏には準々決勝に進出されてて、元プロ野球選手の赤嶺賢勇さん、石嶺和彦さんが出身。
と言った感じの高校になります。
以上が、金城徹さんの学歴(出身高校・大学など)に関する記事ですね。
金城徹の経歴は?
金城徹さんの経歴ですが
1979年 25歳で保育園「社会福祉法人千草福祉会」設立
親より近くで子供達に寄り添える仕事は、自分の子育ての重なりやりがいを感じてたそうです。
1981年、30歳で千草保育園園長に就任
保育環境改善のため議会へ陳情・要請などを行うも、子育て世代の声が政治に反映されにくく、仲間の園長たちやPTAなどと連合体を作り、役所に陳情すると、目に見えて毎年上がってた保育料がストップし、そうした時に「ぜひ声なき声を、小さな子供達の声を守る上でも政界に行って欲しい」と言う周りの勧めもあり政治の道を志します。
1992年、37歳で自民党公認で那覇市議会議員に初当選し、6期務める
2001年7月、那覇市議会議員選挙で2954票で当選
2005年7月、那覇市議会議員選挙で2449票で当選
2009年6月、那覇市議会議員選挙で2069.230票で当選
2009年~2016年10月、那覇市議会議長(2期)
2013年7月、那覇市議会議員選挙で3355.520票で当選
2017年7月、那覇市議会議員選挙で1676票
2014年、オール沖縄へ参加
2017年~2021年1月、政策集団「新しい風・にぬふぁぶし」共同代表
2019年(令和元年)、オール沖縄会議共同代表就任
オール沖縄に参加したのは
2013年のオスプレイ配備撤回、県内移設断念を求める『建白書』が、今に続く「オール沖縄」の大きな政治的な流れをつくり、翁長雄志知事を誕生させました。県民の思いを踏みにじる自民党政権のやり方は、地方自治のあり方を否定し、民主主義を断ち切る行為で、これを許すことができませんでした。過重な基地負担をはじめとする、困難な立場に置かれている沖縄において、政治は一つの塊になって問題解決に向かっていかなければなりません。「島ぐるみ」で祖国復帰を果たしたときのように、県民が一丸となって立ち向かう時だと決意しました。翁長知事を中心に県民がまとまり、辺野古新基地を建設断念に追い込む。当時からその気概を持って頑張ってきました。
と言った感じになります。
さらに、社会福祉法人日本保育協会沖縄県支部 事務局長・相談役、那覇大綱曳保存会垣花実行委員会・顧問、全国市議会議長会 副会長を歴任されています。
以上が、金城徹さんの経歴になりますね。