舟木一夫さんですが、父親が栄吉さんで「飲む、打つ、買う」を人の10倍やる典型的な遊び人だったそうで、母親が9人出来たそうです。
そして、生みの母親の雅子さんは小学校入学後間もなく家を出て、小4の時にもう一回一緒に住みますが、雅子さんとの再婚相手とあまり上手く行かず、父親と再び住む事になりました。
9番目の母親の節さんとは小学校5年時に親子になり、良好な親子関係を築き、かなり仲良しでした。
さらに、舟木一夫さんは、中学1年時に生まれた弟さんと舟木さんが東京上京する少し前に生まれた妹さんをかなり可愛がってたそうです。
と言った感じで、両親や兄弟について書きました。
舟木一夫の家族構成や写真(画像)は?
舟木一夫さんの家族構成は、父親の上田栄吉さんと母親の上田節さんになります。
兄弟は、姉の恵子さん・弟の幸正さん・妹の晴子さんになります。
こちらが、父親の上田栄吉さんと母親の上田節さんの画像(写真)になります。
引用:https://ameblo.jp/musasinohunakigumi2019/entry-12657763743.html
舟木一夫の家族は?父親・栄吉は映画館経営者で遊び人だった?
舟木一夫さんは、父親・上田栄吉さんと母親・雅子さんの長男として、1944年12月12日に生まれました。
父親には、舟木一夫さんは考え込んだ様な顔をして生まれて来た様に思えたそうです。
本名の成幸(しげゆき)は、父親が尊敬する武将の楠木正成と真田幸村から一字ずつとって名付けたそうです。
父親の栄吉さんの職業は小さな映画館経営や興行師だったそうで、「飲む、打つ、買う」を人の10倍やる典型的な遊び人だったそうです。
ただ、父親はしつけはキチンとされてて、舟木一夫さんは近所の人に対して帽子を取り挨拶をしたり、友達の家に宿泊する際は宿泊証明書を貰ってくる様な真面目な少年だったそうです。
さらに、父親は舟木一夫さんが歌手になる事への背中を押してくれたそうです。
そして、父親は石川県河北郡津幡町笠谷の旧家の出で、父方の祖父は立山伊次郎の四股名で雷部屋に所属してた力士でした。
父親の栄吉さんは、1977年に63歳で亡くなりました。
ちなみに、舟木一夫さんが売れた事で父親は50歳ぐらいで仕事をしなくなったそうで、父親に「いくら僕が売れたからって、一家の大黒柱を放棄したのは失敗だろ」と言った事があるそうです。
舟木一夫の家族は?母親・雅子の再婚相手は国鉄マン!
舟木一夫さんが小学校に入学後まもなく学校から帰ると家の中がらんとしてて母親・雅子さんの姿がなかったそうです。
父親が他人の借金の連帯保証人になり、映画館を手放し家財家具を売ろうとした矢先に、母親・雅子さんはいち早く金目の物を実家に送り自分も実家に戻ってたそうです。
舟木一夫さんは、普段から父親と母親・雅子さんの様子を見てて、こんな日が来る事を予想してたそうで「いなくなったな」と思うだけで涙も出なかったそうです。
その後は、小学校6年生までの間に合計9人の母親が現れては消えて行ったそうです。
舟木一夫さんは、「おかあさん」と呼ばないまでも母親とは認識されてたそうです。
一番短い人は1泊2日の人で、ある出て行った人を舟木一夫さんが自転車で迎えに行き、説得して連れて帰るも、2か月ほどで出て行った事もあるそうです。
ちなみに、生みの母親が出て行ってから、父親の友人夫婦に預けられた事もあるそうで、いつまでも父親が向かいに来ないので、気まずくなって納屋でおかずのないご飯を食べて過ごしてたそうです。
小学校4年時に、生みの母親の雅子さんが舟木一夫さんを心配して「シゲちゃんを引き取りたい」と言ってきたそうです。
生みの母親の雅子さんは国鉄勤務の人と再婚してて、一緒に暮らしますが、ある日の夕食で舟木一夫さんがすき焼きの肉をつまむと再婚相手の男性が箸でビシッと叩かれたそうです。
その事がショックで、顔面神経痛の様な症状が止まらなくなり、4か月後に父親の栄吉さんの元に戻ります。
そして、1967年7月に父親の栄吉さんから「お前のお袋から電話があって、一度会いたいと言ってるがどうする」と聞かれ8月1日~4日まで行われたコンサートが終わった後に、父親の栄吉さんと一緒に約10年ぶりに会い食事をしたそうです。
ただ、舟木一夫さんはほとんど会話をしないまま15分程で席を立ち外に出て、「どうしたんだ」と父親の栄吉さんに言われ、舟木一夫さんは「あの人はダメだ。親父が別れたの無理ないよ」と答えたそうです。
その後、生みの母親の雅子さんと会う事はなかったそうですが、1979年秋に舟木一夫さんが曲作りをしてる時に、電話で雅子さんが亡くなった事を告げられました。
その時は「ああ、そう」と言って電話を切り何もなかった様に作業に戻りましたが、5分程して突然に大粒の涙が流れ、何度もしゃくり上げ、涙はいつまでも止まらなかったそうで、「これが血の繋がりなのか」と思ったそうです。
9番目の母親・節とは良好な関係だった!
9番目の母親の節さんは、舟木一夫さんが小学校5年生の冬の時に母親になり、舟木一夫さんは初対面で節さんも見るなり八重歯をのぞかせほんの少し笑ってくれた事で、不安で一杯の節さんの緊張を一瞬でときほぐしてくれたそうです。
父親から節さんの事を聞かされてて、節さんの前に両ひざをキチンとそろえて座ると「僕、成幸です。」とお辞儀をされました。
そして、節さんが「ぼうや、私の事をなんて呼んでくれる?おばちゃん?おかあちゃん?」と言ったら、舟木一夫さんは「僕、お母さんって呼びます」と言って、節さんは思わず舟木一夫さんの手を握りしめてたそうです。
この事に関しては父親も「まさか、ああ答えるとは思ってなかった」とびっくりしてたそうです。
母親の節が来て三か月も立たないうちに「かあさん」と節さんを探し回る程舟木一夫さんはなついてたそうです。
そして、節さんは毎晩舟木一夫さんをお風呂に入れてたそうです。
舟木一夫さんが歌手を目指し、東京の高校に上京する時に、節さんは「成ちゃん、約束して。どんな事があっても高校だけは真面目に通ってしっかり勉強してね。」と言ったそうで、高校の卒業式を迎えた時に電話で「おかさん、ぼく、約束を守ったよ。十番以内には入れなかったけど、卒業成績は十三番だったよ」と嬉しそうに母親の節さんに報告されたそうです。
そして、「独占手記 舟木一夫の母として過ごした10年」にて、ある日母親の節さんが舟木一夫さんに「僕、お母さんにそっくりだってさ。」と言われたエピソードが紹介されています。
その際に、節さんは「血のつながりはないけれど、私と成幸が、似ていると感じる人がいる事は、私と成幸が実の母と子のように心寄り添えたと言う事でしょうか。」「私もともにもっと自分を育て、成幸の母としても舟木一夫の母としても、成幸の誇りになりたいと思っています。」とコメントされています。
舟木一夫の家族は?弟・妹を溺愛してた!
中学1年時に、弟の幸正(ゆきまさ)さんが生まれ、学校から帰ると弟さんをおんぶしたり、弟さんをおぶった状態で嬉しそうに遊びに行ってたそうです。
当時、舟木一夫さんは野球に夢中でしたが、野球の時でも弟さんの面倒を見てたそうです。
そして、弟さんが生まれた時に家が貧しかったので、弟が物心つくまでに人並みの生活をさせてあげたいと「学校卒業に自分の才能で短い間で稼げる世界に行きたい」と思う様になり、歌手を目指す様になったそうです。
弟さんは、1984年に26歳で事故で亡くなっています。
そして、舟木一夫さんが東京に上京する少し前に妹の晴子(はるこ)さんが生まれました。
舟木一夫さんは妹も可愛がり、5歳になる晴子さんと一緒にお風呂に入った時に「女の子はお湯で顔を洗うとシワが増えるからいけないよ。」と言われたそうです。
さらに、舟木一夫さんが20歳の時に都内に100坪を超える家を購入し、家族を呼び寄せたそうです。
ただ、家の中で舟木一夫さんの存在は、上田成幸ではなく舟木一夫になり、親子・兄弟でも舟木一夫さんに腫物に触るような物言いになり、家族との関係はぎくしゃくしてしまい、「このままじゃダメだ」と思い舟木さんは25歳で家を出たそうです。
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