今回は、歌手・北原ミレイさんの
若い頃の画像・動画まとめ
幼少期や中学・高校時代などや
デビュー時や阿久悠さん・なかにし礼さんとのエピソードなど…若い頃の経歴
などなど…北原ミレイさんの若い頃について書きました。
北原ミレイの若い頃の経歴は?中学・高校時代などのエピソードは?
北原ミレイさんの若い頃の経歴ですが
1948年7月18日、愛知県豊川市で生まれる
北原ミレイさんの本名は南玲子(みなみれいこ)になります。
演歌好きの父親が、蓄音機で演歌をよく聞かせてくれた影響で、歌が大好きになる
そして、経営する機械工場で朝から晩まで忙しく働く両親に「少しでも自分を気付いてほしくて、機械音に負けない様に大声で歌ってた」のが北原ミレイさんの歌の原点になります。
進学した高校が歌手・大津美子さんの出身だと知り「田舎で生まれ育った自分でも、東京で歌手になれるかもしれない」と思い、高校2年生から作曲家兼歌手の佐伯一郎さんにレッスンして貰う為に、浜松まで週2で通う
高校卒業間近に、歌手になりたい事を親に言うと、母親が猛反対されるも、何度も頼み込み、東京にいる姉と暮らす事を条件に上京する
ちなみに、北原ミレイさんは私立桜ケ丘高校出身で、テニスの特待生でした。
桜丘高校は
- 豊橋市の中高一貫教育を行う私立の高校
- 全日制の男女共学学校
- 偏差値は、普通科英数コース 58・普通科普通コースと音楽科 49
そして、硬式テニス部は
卒業生にはプロテニスプレーヤー(現在は引退)がいるほどの伝統あるテニス部です。東三河のテニスクラブのコーチも桜丘テニス部の卒業生がたくさんいます。充実した練習を行っています。「テニスをするなら桜丘。」
主な実績
男子平成24年度高校総体県大会 団体(3位)
男子平成24年度東海中日ジュニアテニス選手権男子S(優勝)
男子平成24年度東海大会出場女子団体東三河優勝
女子団体 県大会出場
と言った感じで強豪の様です。
そこで、特待生だった北原ミレイさんはかなり凄いレベルだった事が分かりますね~
さらに、北原ミレイさんは牛久保小学校→南部中学校出身になります。
以上が、北原ミレイさんの中学・高校時代など若い頃の経歴になりますね。
北原ミレイの若い頃の経歴は?動画・画像が可愛い!
さらに、北原ミレイさんの若い頃についてですが
上京後、歌謡界と接点を持つために銀座・赤坂・六本木のナイト・クラブで唄いながら、ヘンリー・倉田さんを始め浜口倉之助さんにジャズ、大本恭敬さんにカンツォーネなど様々な作曲家に師事し実力を磨く
ナイトクラブで唄う姿を見て、水原弘さんに見いだされ、芸能事務所を紹介して貰う
歌声を作詞家・阿久悠さんに見出され、1970年10月に22歳に阿久悠作詞・村井邦彦作曲「ぜんげの値打ちもない」でデビュー
引用:https://lynyrdburitto.hatenablog.com/entry/2020/02/13/153000
北原ミレイさんは新人なので何が来ても“はい”と言おうと思っていましたが、歌詞を見た時に心の中では「なんで私がこれを歌わなければいけないとかな」と思ったそうです。
リリースして3か月ぐらいは曲は売れず、最初のジャケットは派手なドレス姿でしたが、漫画家・上村一夫さんにジャケットのイラストを頼み、衣装を派手なワンピースから黒に、髪型もストレートヘアに変えるなど…徹底的なイメージ作りを行う
この曲のイメージの為に、「笑わない、喋らない、うつむいて歌う」事を徹底されます。
「喋る事が好きなのに、偽りの自分を演じないといけない」のが辛く10キロ痩せたそうです。
ただ、その努力もあり、曲はヒットします。
「こんな事をする為に歌手になったんじゃない」と言う気持ちでしたが、後に阿久さんに「この曲はおまえにしか歌えない」と言われ、今では「北原ミレイを生んでくれた曲」と思ってるそうです。
https://youtu.be/RzcFYbOqYa0
1971年5月、阿久悠作詞・村井邦彦作曲「棄てるものがあるうちはいい」
1971年10月、阿久悠作詞・筒美京平作曲「何も死ぬことはないだろうに」
引用:http://bothsidesnow.blog116.fc2.com/blog-date-201808.html
その後、可愛い歌を歌いたかったは北原ミレイさんは、「2曲目は可愛い歌で」とお願いし、「分かった」という返事が返って来るも、曲のタイトルが「棄てるものがあるうちはいい」で、思わず「こんなのだったら私、故郷に帰ります。」と言ったそうです…
それに対し「いや待って待って。分かってる。ロマンティックな可愛い曲を作ってもらうから。」と説得され、3曲目のタイトルが「何も死ぬことはないだろうに」だったので、「阿久さんはなんで私をここまでするの」と思ったとか…
1975年6月25日、なかにし礼作詞・浜圭介作曲「石狩挽歌」(1975年日本作詞大賞・作品賞受賞)
引用:https://merurido.jp/donuts_topic.php/showadonuts/donuts_topic.php?topic=39294
「次の曲はなかにしさんに決まったから」と聞き、「嬉しい! 私ロマンティックな歌が歌いたかったの」と思われたとか…
ただ、北原ミレイさんは最初は曲に対し「冗談じゃない」と思われ、最初は「ごめんなさい」と返すも、スタッフが「そんなこと言わずにアレンジができるまで待っていて」と説得されるも、内心では「冗談じゃないわよ、私は絶対この曲は歌わないわよ」と思われていたそうです。
ただ、アレンジができイントロ部分を聴いた時「あら、私歌いたい!」思われて、なかにしさんにはずっと「お前あの時この歌返してきたよな。でもお前のこの声なんだよ、この声で歌ってほしかったんだから。」と言われてたそうです。
ちなみに、なかにしさんは曲が出来た時に、お嫁さんに「今度はすごい曲ができた」と言われてたそうです。
北原ミレイさんは、曲内で描かれるニシン漁のイメージがつかめず苦労しましたが、なかにし礼さんが実際に北海道のニシン漁を見せてくれたおかげで、曲の内容が理解できました。
今でも北原ミレイさんは「石狩挽歌は、自分を歌手として育ててくれた」と語られています。
他の北原ミレイさんの若い頃の画像ですが
引用:https://ameblo.jp/7080hitsong/entry-12204425647.html
引用:https://plaza.rakuten.co.jp/necyonet/diary/200804140000/
やはり、北原ミレイさんの若い頃から綺麗な人なんですね~
以上が、北原ミレイさんの若い頃の画像・動画になりますね。
https://akasannbiz.com/2021/06/15/kitaharamirei-oltuto/